「よっす!一晩泊めてくれよ!!」 小鳥の声がうるさい朝、マッスルがノックの音を聞いて部屋の扉を開けると、 毛布と枕を羽で抱えたハピコが、満面の笑みでそんなことを言っていたので、すぐにマッスルは扉を閉めた。 (一体、何の冗談だ……!?) 今までだって、様々なトラブルを持ち込んできたハピコであったが、 さすがに、部屋に泊めてくれというのは初めてだったし、意味が分からなかった。 男部屋の扉には鍵がかからないので、 マッスルは背中で扉を押さえて立ち塞がった。 そうしているうちに、諦めて帰ってくれることを願っていたのだが、 あろうことか、ハピコは扉を蹴り始めて――しかも、太鼓でも叩くような激しいリズムで蹴り続けるので、 このまま放置しておくわけにもいかなくなって、マッスルは冷や汗をかきながら扉を少しだけ開いた。 「おいおい、止めてくれよ……!夜勤明けのマーロウの旦那が右隣の部屋でまだ寝てんだよ……!」 「へぇ〜?すぅ………!!」 肺一杯に空気を吸い込むハピコ――! 明らかに騒ぎ出しそうな気配を見て、マッスルは慌てて手を伸ばして口を押さえにいったが、 もちろん、そうすると扉が開いてしまい、その隙間からハピコは部屋に転がり込んだ。 あっけにとられているマッスルの背中を残して、 ハピコは部屋の中央のカーペットまで進むと、真一文字に羽を広げて、荷物を降ろした。 「セーフ!!」 「お前の存在がアウトなんだよ……!」 マッスルはしぶしぶと扉を閉じると、自分達の部屋に戻った。 拠点の西側にあるこの部屋は、アルフレッドと二人で使っていたが、今日はアルフレッドはいない。 そのことが騒動を大きくさせずにすんだのか、はたまた貴重な制止役を失ってしまっているのか……。 マッスルが大きく溜息を吐いて、次にハピコに向けて顔を上げた時には、 ハピコは部屋のベッドの下を探ろうとしていた。 「いきなりプライベートゾーンに手を突っ込んでんじゃねえ!!」 「手じゃねえよ、足だよ。なんか雑誌落ちてたら拾って読もうと思ってよ」 「分かっててやってるだろお前!!」 マッスルはハピコを引っ張り出してから、説教の代わりにげんこつを一発頭に落としておいた。 ハピコは身体をくの字にして痛がった。 マッスルは何とも思わない。 派手に痛がって「やりすぎたかな?」と罪悪感を刺激させるのが、ハピコのいつものやり方だったから。 ハピコはそれに効果が無いと知ると、ぱっと顔を上げて、にぱっと微笑んでから、すぱっと切り出した。 「なあ!一晩泊めてくれよ!」 「お前、少しはひるめよ……って、あれ?お前、その足どうした?」 ハピコは白いオーバーニーソックスを両足に履いていた。 マッスルの記憶では、確か殆どの場合をコイツは素足で過ごしていた気がする。 ハーピー族は足に頼ることが多いので、指先が開く素足が一番だとか何とか―― 「珍しいな?お前いっつも素足じゃなかったか?」 「いやん!えっち……!!」 マッスルはもう一度手を振り上げた。 ハピコはげんこつを軽やかにかわす。 二発目のげんこつは当たらないと思っていた。 しかし、こういう流れを断ち切るにはこれが丁度良い。 「だけど、良い部屋だな、ここ……!気に入ったぜ!チップははずんでやる!」 「泊まらさねえよ……で?今度は何をやらかして逃げてきたんだ?」 「鋭いな……!?」 「茶番はいいから、さっさと説明しろ」 「え〜?説明したら泊まらせてくれんのか〜?」 「その理由が、俺を納得させるものだったらな」 マッスルは先にお茶を取りに立ち上がった。 急須の中の番茶は既にぬるくなっていたが、こいつに出すには丁度良い。 立ち上がる際に「一切触るなよ」と言っておいたのが効いたのか、 その間、ハピコは部屋をつまらなそうに見回すだけで、 とくに行動は起こさなかった。 「ほらっ」 「サンキュー!大統領!」 「それ飲んだら帰ってくれな……」 「あのさ〜」 「あん?」 「うちの部屋、お化けが出るんだよ」 「……あん?」 二度目のあん?は最初のとはニュアンスが違った。 純粋に何を言っているか、さっぱり分からなかったので、話を引き延ばしているのかと思ったが、 ハピコはマッスルに向き直り、正座をして真面目な顔でそんなことを言うのだ。 「お化け?お化けってお前……アノお化け?」 「そうそう!」 「いや、お前、お化けを怖がるようなタマじゃねえだろ……!?それともあれか?ここらで一つ、銭が怖いってか!」 「落語じゃねえよ……!これでも花の乙女なんだぜ!?」 「馬鹿馬鹿しい……!お化けなんぞ、お前のハピコトーネードで一撃だろ!」 「物理攻撃は効かないんだってば!」 「そうかい。だったら、アルフレッドに――」 そう思って、はたと気付いた。 そうだ、アルフレッドはいないのだった。帝都に泊まりがけの仕事に出ているのだ。 「アルフレッドがいないのは知ってるよ。こっちの相部屋のクウェウリもいないんだ」 「へえ?クウェウリさんも出てるのか?」 「カラカラ村、春のカレー祭りに参加するんだってよ。だからあの部屋にいても私一人で――」 「カレーか……美味しそうだな……」 「意識引っ張られんなよな!今は私の話だ!!」 思ったよりハピコが怒ったので、マッスルは筋肉を縮こまらせた。 何で話を聞いてやっている俺が、怒られないといけないのか。 「とにかく、一晩泊めてくれればいいんだよ」 「つまり、何かお前?お化けが怖いから、部屋に一人でいたくないってだけなのか?」 「そういう言い方……まあ、そうなんだけど……」 「ぷっ……ぶわはっはははは!!」 「………」 マッスルは、今までやり込められていた分の反撃だとばかりに大笑いした……! そりゃあもう、腹をよじらせて、相手に指を突き出して笑った。 しばらく笑っていたが、反撃に来るか、怒って帰るかと思っていたハピコからは何の応答もない。 しゅんとして下を向いて何かを我慢するように、膝を羽で押さえている。 さすがに、いたたまれなくなって「お、おい?」と声をかけても返事が無い。 「あんたなら笑わないと思ったのに……」 「……え?」 「だから他の人に言えなかったんだ……みんな笑って馬鹿にするからさ……」 「い、いや、だってよ……」 「………」 「………」 「もういい、帰る……」 「ええ?」 「泊めてくれないなら帰る……!」 「お、おい、待てよ!」 「あんたもどうせ馬鹿にしてるんでしょ……!?」 「悪かったって!笑わないって!」 「泊めて……くれる?」 「え、ええっと……」 ハピコの目にキラキラと光るものを見て、マッスルは喉を詰まらせた。 何だか、もの凄く男らしくないことをしてしまった気がする。 罪悪感に包まれる。 鼻に手を当てて、そのまま口を拭う……困った時の癖だ。 どうする?泊めてやるか? 特別に何かあるわけでもない。 ハピコなら、みんな分かってくれるか? 分かって―― 「あっぶな!!」 すぐにチッという舌打ちが聞こえた。 マッスルは浅い呼吸を整えるように大きく深呼吸をした。 危ない……!騙されるな……!今のは口調からして変だったじゃないか……! それにしてもこいつ、嘘泣きなんて――と思ったらハピコの尻の横に目薬が用意されていて、 もうこいつ駄目だと思った。 「というわけでさぁ……」 「何がというわけだよ……お前、よくそこから話を繋げられるな……」 「つまり、他の人には言いづらいんだよね。馬鹿にされるからさ」 「まぁ、馬鹿にされるだろうけどよ。だからって、さすがに泊めるわけにはいかねえぞ。一晩くらい我慢しろよ」 「いやぁ、一晩でもきついんだ。何しろ実害があるからね、このお化け」 「実害?」 「私が寝てるときにさ、足を噛んでくるんだよ」 「は、はぁ?」 「見るかい?」 ハピコはそう言うと、いきなり足を使って靴下を脱ぎ始めた。 マッスルは驚いて反射的に目を背けたが、ちらりと目線を戻した時にもっと驚いた。 ――無数の青い痣だ。 白いふくらはぎの辺りに、小さな青い痣が並んでいる……。 その並びがどうやら歯形であると気付いた時に、ハピコの言っている意味がわかった。 かなり小さな歯形――おそらく幼児くらいのような……。 それも一つじゃない。 他にも足首やスネの近くにも同様の小さな歯形が痣となって残っていた。 「お前……これ……」 「お化けだよ。寝てるときに噛みついてくるんだ」 「どうなってんだ……?本当にお化けがいて、そいつが噛みついてくるって言うのか?」 「だから、今見せてる通りだよ」 目を凝らして見ても、ペイントの類いではない。 間違いなく痣だ。 だから、ハピコはこれを隠す為に、わざわざ長い靴下を履いていたのだ。 マッスルは何かいけないものを見てしまったような、 気恥ずかしさと、妙な居心地の悪さを感じて、目をしばたたいた。 マッスルの動転を横目に、ハピコは足と羽で器用に靴下を広げて、あっという間に靴下を戻してしまう。 疑問はまだ残っていたが、そうすると、もっとよく見せろというのも気が引ける。 「一体、いつからだよ?」 「三日くらい前からだな。一人の時部屋で寝てるとちょこちょこと噛まれてるんだ」 「寝てるのに何で幽霊だって分かる?」 「あれ?知らないか?流行ってたのこっちだけ?逆さ女の話」 「さかさおんな?」 「逆さまに顔がついている女の生首だよ。暗闇のどこかに張り付いていて、人が寝て隙を見せると降りてきて――」 がちんっ――! ハピコは勢いよく歯を合わせて音を立てた。 聞いてるだけで背筋に寒いものが走った。 起きている時ならともかく、なるほど、そんなお化けが襲ってくるとなると、怖くて寝られないのも無理はない。 「それ、お前の部屋だけに出るのか?」 「おうよ」 「何で噂のお化けが、お前の部屋だけに出るんだよ?他の人達はどうしてんだ?例えば相部屋の――」 「ああ、クウェウリね。彼女は噛まれないんだよ」 「どうして?」 「逆さ女は悪い子にしか噛みついてこないんだってさ」 マッスルは、さっきまでホラーだった空気が急速に弛緩していくのを感じた。 悪い子にしか噛みついてこないって……! まるで、大人が子供を躾けるときに出てくる、絵本の中のお化けみたいだ。 さっきまで、頭の中では髪の長い青白い生首が飛び交っていたが、 今はもうそれもいない。 「だから、今日だけなんだよ。アルフレッドが帰って来たら、除霊してもらうからさ!」 「あいつ、まだ三日くらいは帰ってこないぜ?」 「クウェウリが帰ってきたら、それはそれで何とかなるさ。だから一晩だけ!な!?」 「あのなぁ……」 「頼むよ!ここまで聞いたんじゃんか!あんたと私の仲だろ!?」 それだけ言って、後は無言で羽を合わせて懇願する。 それでも、マッスルが渋っていたら、いよいよ頭をカーペットに擦り付けて土下座をし始めた。 こんなハピコは見たこと無かった。 プライドが高く、自分が傷つくような場面は飄々(ひょうひょう)と冗談で切り抜けているように見えたのに、 今のハピコは本当に弱っているように見えた。 (たかがお化けではあるんだがなぁ……) マッスルは悩んだ……悩みに悩んだあげく、ついに根負けしてしまった。 こいつのプライドじゃあ、怖いから泊めてくださいとは周りの人間に言えないのだろう。 だったら、まあ、俺が犠牲になってやるかと。 こいつとなら二人きりでいても、何か起きるって話もありえないだろうし。 「分かった……じゃあ、一晩だけ譲歩してやるよ」 「おお!!」 「夜になる前にこの部屋にいろ。歯ブラシとか必要なものも先に持ってきておけ」 「うんうん!感謝するぜマッスル!やっぱり持つべきものは親友だな!」 花が咲いたような笑顔を見せたハピコは本当に喜んで見えた。 言われたマッスルも悪い気はしない。 ハピコは一度部屋に戻り、生活用品とコミックを持って帰ってきて、 そのまま、しばらく足でコミックをめくりながら自分の部屋のようにくつろいでいたが、 三十分ほどで思い出したように、特産品売り場へと飛んでいき、 こたつ蜜柑ジュースとおつまみを買って来て、マッスルに乾杯を促した。 そのはしゃぎようを見て、マッスルは更に気分を良くした。 しばらく、マッスルはハピコの遊び(ボードゲームなど)に付き合わされて、 付き合わされているうちに、段々と陽も傾いてきた。 ハピコのテンションは上がるばかりだったが、 マッスルの方は、夜がじりじりと近づいてくるにつれて、段々と気持ちが泡立ってきた。 全てが上手くいっているような万能感は去り、先の不安ばかりが膨らんでいく。 自分は勢いでとんでもないことを言ってしまったのではないかと、脇の下に嫌な汗がじとっと湧く。 しかし、今更取り消すなんて男らしくないことは、絶対に出来ないのが、マッスルという男だった。 夜はつつがなくやって来て、辺りを墨色に染めた。 カンテラの頼りない明かりの下で、マッスルとハピコは、サラダとおでん缶を開けて食べた。 ハピコの方は、あぐらを組んでよく話しかけてきたが、 マッスルの方は気持ちが集中出来なくて、ああ、とか、そうだなと適当な言葉をうつむいて返すだけ。 しばらくすると、ハピコの方が、もう寝ると言い出して、 カーペットの上に毛布を広げて横になった……頭上にはカンテラを置く。 俺が床で寝るからと、マッスルはベッドを差し出そうとしたのだが、 いいよいいよ、と言っているうちに、ハピコはすーすーと寝息を立て始めた……。 ベッドに背中を預けながら、マッスルはその様子を黙って見ていた。 よく寝られるものだなと、感心しながら、意識していたのは俺だけかと、悔しく思いながら、 それでも、これで良かったんだよなと最後には納得して……。 窓の外には、まん丸のお月様。 部屋はふんわりとした月明かりに照らされて、 その明かりの下で膝を抱きかかえて眠るハピコは、無垢な天使のようにも見えた。 しばらくは、眠る気にならなくて、マッスルはコーヒーを飲んだり、 手洗い場に立って歯を磨いたりしながら、ハピコの寝姿を見守っていた。 しかし、結局は、幽霊の姿なんて影も形も無くて、 また、ハピコの方もうなされているようにはとても見えなかったので、 一時間ほど見守った後で、マッスルは自分のベッドに入った。 深く静かなハピコの寝息だけが部屋の中にあり、何だか優しい気持ちにさせてくれた。 そのまま、マッスルもまどろみの中へと落ちていった……。